
🍃 隠れスポットの河原へランチをしに。
しばらくすると、
それまでそよいでいた風とは違う、
勢いのある太い風がやって来て、
・・・<🐟 風の挨拶、光の矢>

💚 何かに引っかかった心が苦しいのは、
誰かのことが引っかかってモヤモヤが続くのは、
低い視点にいるせい。
それだけのこと。
低い視点で考えるから、
狭い視野で受け止めてしまう。
低い意識で思うから、
暗くて出口が見えなくなる。
「ああ、これ、低い(狭い)視点にいる」
と分かれば、高い視点に抜けられる。
遠のいて観られる意識に移行できる。
できると知ってれば、できる。
「イヤだ、嫌いだ、間違ってる」
と引っかかりを主張して、
自分の正当性に繋げても、
自分も世界も変わらないから。
心の内に思っていることに、嵌っている考えに、
静かに自分で注目してみる。
自分の意識が、視点が、
低いか高いか感じてみる。
自分がどうあるのか分かるだけでも、
自分が変わる。
🌏 ・・・<🌞 はじまりは伯爵夫人>
<io日和> <魚の庭> <ゼロ✦プラ>
.jpg)
十代の終わり、二十歳くらいだったか。
ふっと、
「人生は、自分に還る道なんだ」と思った。
まだ、「精神世界」という言葉も、「スピリチュアル」も知らなかった(なかった)頃。
人は、生まれて、子どもからオトナになる過程で、
常識や既成概念、やり方を、
教えられて身に付けたようになるけれど、
いったんオトナになったら、
今度は、着ぐるみみたいになった考えややり方を脱いだり捨てたりして、
自分になる。
それが、人生か。
ふと、そう思った。
そう思ったところで、実際には、着々と自分に還る道をたどったわけではないし、
そのことを意識して日々を過ごせたのでもなく、
無駄が多くて、気が遠くなってしまう。
だって、「自分に還る」の「自分」すら漠然とで、
ただ、内なる奥のほうでは、
その「自分」は、魂に由来した、いわゆる本来の自分だろう、
ということは、言葉にできなくても分かる感覚はあった。
散々の無駄も含めて、「自分に還る道」と思うこの頃。
◆ io日誌 <10月28日>
<io日和> <魚の庭> <ゼロ✦プラ>

🍃 「何か」は、出くわしてみないと何なのか分からない。
「何か面白いこと」の「何か」も、
「何かいいこと」の「何か」も。 ・・・<🐟 夕陽タイムに>
.jpg)
🌏 「自分の子に「バカ、バカ」言う親は、子に越されるのを怖れているんだよ」
「え?」と思ったが、
「あ!」とも思う。
・・・<🌞 バカ・・・見えない臍の緒を握りしめる人の姿>

📷 夕方、門が閉まる直前の靖国さん。
近くにいても、このタイミングで通りかかることはなかなかないので、
記念の一枚。

🍃 恵比寿の閑静な住宅街。
声が響かないようにトーンを落として話しながら歩いているうちにに出くわした。
踏切の穴を抜けると、その向こうは、
異なる世界に通じている。
・・・<🐟 長者丸踏切>
<io日和> <魚の庭> <ゼロ✦プラ>

<2015>
💚 心配とか、不安とか、モヤモヤの中にいるなら、
まず、気づけばいい。
今、自分、心配ゾーンにいる。
今、自分、不安ゾーンにいるんだ。
今、ここはモヤモヤのエリアだ。
自分が陥っている、浸っている、
負のゾーン(エリア)に気づいたら、
スッと、そこを抜ける。
スッと、そこから上がる。
抜ける、上がる、と意図してイメージすれば、
ホントに、スッと抜けるし、スッと上がるから。
もちろん、負のエリアにいたければ、
そのままでいい。
腐りたいときだってあるだろうし、
拗ねていたいときだってある。
ただ、自分が「負」の場所で「負」になってる、
そこには気づこうよ。
明るい場所(エリア)が、本来の場所(ゾーン)。
安心して、深く呼吸できる自分でいること。
いつでも、その自分に(自分で)なれる、
(自分で)戻れることを覚えよう。

<2019> 台風の爪痕

🍃 紅葉で盛りあがる「まさに秋」が来る前の今、
・・・<🐟 季節の空き時間>
<io日和> <魚の庭> <ゼロ✦プラ>