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ブラッドベリ(Ray Bradbury)の短編集『10月はたそがれの国(The October Country)』。
この邦題は秀逸だ。
タイトル文字を読んだだけで、不思議の扉が開く音が頭の中に聞こえてくる。
さて、十月が「たそがれの国」なら、五月は「さみしいの国」か。
この“さみしい”が人恋しいのさみしさなら、誰かと一緒にいれば紛れるのだろうが、そういうさみしいとは違う。
そもそも、人恋しくなる性質ではない。
潜伏している持病みたいなもの。
人といても、遊びに行っても、天気がよくても、心の一部に薄らさみしいがいる。
暑くも寒くもない、五月の爽やかさのせいなのか。
日にちの境界線を越えて月が変わっただけで、毎月、(空)気が変わる。
たとえば、大晦日と正月元旦。
たった一日の違いなのに、月と年が変わると、居る場所を違えたように“気”が変わったのを感じる。
ただ、大晦日と元旦について言えば、一つの年を終えて新しい年を迎える気構えがあるから、心が易々とついていくのかもしれない。
四月と五月の境界線は、あるようなないような、他の月変わりに比べると流れで入ってしまうところがある。
ああ、そうだ、きっとそのせいだ。
心が五月の(空)気に馴染んでいかないせいなのだ。
根拠がなくても、理由づけてしまうとさっぱりするものだ。
あ、さみしい病が、消えていく。
「待てぇ」
呼び止めても、消えていくときは消えていく。
十月はたそがれの国 (1965年) (創元推理文庫)
10月はたそがれの国 (創元SF文庫)
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