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神さまのお遣い

乾いた田んぼが続く景色の中を、考えごとをしながら歩いていた散歩の道中。
「ああなのかなぁ、こうなのかなぁ」と思うところが頭をめぐる、そんなとき、いきなり視界に目を見張るものが現れた。

鮮やかな彩りのその姿に、一瞬「クジャク?」と声を発していたが、頭の中に「キジ」の文字が浮かんだ。
キジだ。

それまでどこにも目に付かなかったきれいな目立つ姿で、いったいどうやって来たのか……。
キジというのは妙な現れ方をするものらしい。知人である小説家のT氏と編集者氏が取材の地で遭遇したときも、いきなり湧いて出たように目の前にいたのだと聞いている。

空間の隙間から、ひょいと出てきたように現れたキジは、道路に近い田んぼの中を悠々と歩いている。
カメラを取り出して撮るべきか、とも思ったが、身動きせず見ていたい気持ちが優先した。

首のあたりの羽毛は艶やかな瑠璃色をしている。
瑠璃色から繋がる光沢のあるグリーンに、鮮烈な赤い部分が、体全体の明るい褐色に際立ち、黄金色の秋の中に美しさをくっきり浮かびあがらせている。

こんなことが起こるんだ。
動物園かどこかで見たことがあったかもしれないが、野生のキジにお目にかかるとは。

しばらくの間、手を合わせたくなるほどの美しい姿を見守っていると、ツツ、ツツツツツ、キジが背の高い草むらに向かって走り出した。
けっこう足が速い。
姿が消えかかるところで、ようやく撮ってもいいような気がして、遠くからカメラを向けた。

撮れたには撮れたけど、保護色でほとんど分からない。
部分拡大してみたが、実際にこの目で見た美しさは画像の比ではなかった。

20121128a.jpg

キジは神さまのお遣いとも言われる鳥。
あの姿を見たら、考えごとなんかぶっ飛んでしまった。
頭の中の靄が払われて、「ああだろうか、こうだろうか」は惑わされていただけと分かった。

神さまはときどき、こっちが思い付かないやり方で、ハッとさせて楽しませてくれる。

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・4年前の今日の日記 「「泣いた赤おに」考」
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自然に種は蒔かれて

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町を歩くと、知らない人が挨拶してくれる。
軽く頭を下げたり、ニコッとした表情を見せたり、「こんにちは〜」と自然な声を発するときもある。
近くをすれ違うときに限らず、互いの距離があっても、姿を認識すると何気に挨拶を交わす。

町へ来たばかりの頃は、「あ、挨拶された」といちいち思っては、こちらも返す。それが一年経ってみると、いつの間にか自分も何気な挨拶をするようになっている。
軽く頭を下げたり、ニコッとしてみたり、「こんにちは〜」と言ってみたり。
ルールがあってしているわけじゃないので、そのとき自然に自分から出るスタイルでする挨拶。

断っておくけれど、「知らない人同士でも挨拶しましょう」なんてことが言いたいのではないので、早合点しないでほしい。

いつの間にか、自然に、知らない人と挨拶を交わす自分。
そうしている自分に気がつき、ふと思った。
そうか、種を蒔かれていたのだなあ。

もちろん、挨拶をしてくれる町の人たちに、「種を蒔く」なんて意識はない。
「挨拶の種を蒔いて、挨拶し合う結果を得よう」などと意図的な考えがあってする挨拶ではない。
だから、わたしに根付いた「挨拶の種」は、風が種を運んでくるように、あるいは鳥が落とす糞に種が混ざっていたみたいにしてやってきて、知らないうちに芽生えたものなのだ。

断っておくけれど、「さあ、みんなもよい種を蒔きましょう」なんてことが言いたいのではない。

「挨拶の種」のおかげで、わたしは町で、ささやかな気持ちよさの実を味わっている。
それは、努力して知らない人との挨拶を身につけたから得る結果ではない。挨拶を交し合う「気持ちよさ」を得ようとしてもたらされる結果でもない。
知らない人から、自然に種を蒔かれて、自然に気持ちよさを知って、それだけのこと。
元々の種を持っていた人たちは、わたしが今、そのことにどれほど感激しているか知らないのだ。

人は結果を求めたがるでしょ。
できれば思いどおりの結果を、できるだけ大きな結果を、実態があって他人に見せられるほどの結果を。
それもなるべく早く、解りやすく、結論づけられるようなものを得たがる。
そうして、どんな種を蒔くといいとか、こんな蒔きかたをするといいとか、流行りものを追いかけるように、評判のいいやり方や考え方に飛びつく。

でもさ、自分が知らないところで、思いも寄らぬ誰かの中で、ささやかな実が生っていて……。
自然界の営みに似たことが、じつはあちこちで起こっているのだ。
一年やそこらの短いスパンで気がつくこともあれば、たとえば子どもの頃に蒔かれた種に、何十年もしてようやく気づく長いスパンのものもある。

断っておくけれど、「誰かの中で育つように、善き種をたくさん蒔く人になりましょう」なんて言ってない。

風や鳥が運ぶように、自然に蒔かれる種がある。
親から来た種、逝ってしまったじいちゃん・ばあちゃんが置いていった種、身近な人から弾けた種、名前も知らない顔も憶えていない人から飛んできた種。
そんな種が自分の中にたくさんあって、いつの間にか根付いて実が生っていることに気づく。

断っておくけれど、「自分の中に生る実に気づきましょう」などと言いたいのではない。

誰の中にも、たくさんの種が蒔かれている。
意図されず、自然に蒔かれた種が、知らずとも芽生えて今も育っている最中なのだ。
そんなことを思うと、感激の事実に触れたようで、種を蒔かれる身に嬉しさがまた込みあげてくる。

ioWEB> <魚の庭
・4年前の今日の日記 「誘拐気分」
・5年前の今日の日記 「よせばいいのに寄席」
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将来の夢

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散歩に出ると、下校途中の小学生たちに遭遇した。
町の子たちは体操着で通学している。
ちょっと前までは、白の半袖にグリーンの短パン。今は上下グリーンのジャージ姿だ。

年下の子たちを引率するように歩いて来る子、三〜四人でお喋りしながら歩くグループ、一人でぷらぷら歩いている子と、帰りの様子はさまざま。

二人組みの男の子が、子供特有の勢いで陸橋の坂を駆け上がってきた。
三、四年生くらいだろうか。
走りながら、一人の子が声を張り上げて叫んだ。
「お前さぁ、将来の夢って何ぃ?」
唐突な質問。

叫びの質問で、男の子二人の走りっこが歩きに変わり、わたしはすれ違ってしまう前に「将来の夢」の答えが聞きたくて、二人の様子に注目した。
質問された子の目が泳いじゃってる。
「それは、どこ?」って感じ。焦点が合わない顔で山のほうを眺めてみたり。

その子は「将来」という言葉も、「夢」という言葉も知っているはず。ただ、二つの単語を合わせた「将来の夢」といういきなりの質問に、思考回路を探そうとするも、頭の中は砂嵐に見舞われてしまったのだろう。

思考迷子になってる子を相手に、質問したほうの子がまた叫んだ。
「オレはねぇ、出世!」
「出世、出世!出世だよー!」

出世かあ。
そう来るとは想像もしてなかったが、すれ違いざまに答えが分かってよかった。
訊かれたほうの子も、じつは自分が答えを求められていたのではなかったのを察して安堵の表情。口元が緩み、うっすら笑みを浮かべていた。

大人の会話に「出世」という言葉が出てきたのだろう。
「ねえ、出世って何?」
「出世ってのは、偉くなることだよ」
「ふ〜ん」
「お前も将来、出世しろよ」
親戚のおじさんが言ったのだろうか。

そうして目が泳いじゃった子は、ウチに帰ると訊くんだよ。
「じいちゃん、出世って何?」
「ん? 出世ってのは……、偉くなることだ」
そして、“出世”を知らなさそうな子に訊くんだよ。
「お前さ、将来の夢って何?」
「……」
「おれ、出世」

こうして“出世”という言葉が広まっていくのかな、と想像する散歩道。
しかし、出世というのもすでに古い概念に思える。
今の子どもらが大人になったら、聞かない言葉になっていそうな気がするのだ。

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いとしき日々

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ときどき思う。
人間は面倒くさいな、と。
だから、早く人間界を卒業してしまいたいとも。
卒業して、人間の世界にいるのは、これを最後にしてください。
自分の神さまに、そんなふうに言ってるときがある。

でも、そんなことを神さまに言ってるようでは、まだまだで、
まだまだだから、きっとまた、人間界に戻されてしまうのだろうな、と。

ただ、今の自分で生きることは絶対にないし、「今度こそ!」と思ったとしても、なかなか人に生まれる順番が回ってこなかったり、あるいは許可が下りなかったりするのかもしれない。
たぶん、きっと、そう。
だから、降りた地上の人間界で、いっぱいいっぱいでも自分を生きる。
そうするしかないのだ、という答えに毎度戻っていく。

中華ファミレスでご飯をしていたら、しっとりいい感じの曲が流れて、つい聞き入ってしまった。
何の曲だっけ?
そうだ、そうだ、ドラマ『「JIN -仁-」』で流れてたやつ。
平井堅さんの「いとしき日々よ」。

安い中華をパクつきながら、深遠なものを感じながら思いに浸ってる自分の姿は、脳裏に浮かべると滑稽で、「バカ!」と言ってやりたくなる。
滑稽でバカではあるが、心の底から湧いてくる思いは確かに自分の中にあるものなのだ。

この時代にいるように生まれてきたこと。
誰かと時を同じく重ねるために、生まれてきたこと。
これらが計画どおりなのか、予想外かはいざ知らずとも、奇跡に思える。
起こった奇跡の中で、どうやって、どんなふうに、共に自分を生きて、共にいられるか。

結局のところ、人はみんな気持ちよく共にいたい生き物なのだと思う。
「共に」というのは、べたべたくっついて一緒のいることではなく、せめて、せめて、わだかまりを持たず持ち越さず、それぞれの場所で生きること。
問題が起きたとき、私は、この「せめて」を考える。
そして、せめて自分のわだかまりは解消しようと努めたい。

相手を認めること。
相手も自分と同じように、いとしき日々を重ねる存在であること。

頭が考えだす理屈でなく、心が感じるところに意識を向ける。
不思議と、これが相手を動かしたりするものだ。
(ホントは不思議じゃないのだけれど)
そんなことが起こると、やっぱり奇跡の中にいるのだなあ、と泣きそうになる。

以前、十歳ほど上の校正のおねえさんが、お酒の席でうっとりした声で言ったのをたまに思い出す。
「あたしさぁ、死ぬときは、『ああ、あれもしたかった、あんなこともしたかった』って思いながら逝きたいのよねぇ」
そのときは、「後悔しながら逝きたい」と言ってるようで不可解だったが、時が経つにつれだんだん分かる気がする。
おねえさんは、この世への愛しさを籠めていたのかと。
「いとしき日々への思いを持って逝きたい」、そういう意味だったのだろう。





ioWEB> <魚の庭


  
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林道で知る、何気ない怖さ

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広大な住宅街を抜けて林道に入ってしまったものだから、
小一時間の散歩のつもりが、帰ってくるのに三時間もかかってしまった。

林道が終わる辺りで目を引く看板を見つけた。

 キケン
 ここで
 あそばない


20121102b.jpg

荒れたちっさな池の注意書き。
池には河童が頭を出している。
これがホントにありそうだから、怖い。
看板の下のほうに描かれた黄色の鹿さんとピンクの兎さんが、こっちを見ている。

オトナが描いたのか子供が描いたのか分からない注意書き看板。
「フッフフフ~」て、描いているうちにノリノリになってしまった感じが伝わってくる。
ひと気のない所で、風が辺りの木々をざわざわさせる中、
じっと見ていると、ぞくっとくるものがある。
そんな怖さが好き。

怖いって、大事なことなのだ。
怖さや畏れを知らないと、やたらなことや不作法なことを平気でするから。



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🌏5年前の今日の日記 <喋る枕と完璧な嵐


   
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