先日、飲み会で出た話。
イヤなヤツは消える。
「嫌だなあ……」と思う人は生きていれば必ず出会うもので、それも縁だから仕方がない。
自分にとって嬉しい縁だと“ご縁”なんて言い方をして有難がるけど、縁がいいものばかりとは限らない。
イヤなヤツとも、縁なのだ。
イヤなヤツが自分の人生に現れて、イヤと思うなら付き合わなければいい。距離を置くとかね。ところが、そうもいかない場合がある。
例えば、それが上司だったり、部下だったり、同僚であったりすると、ほぼ毎日、顔を合わせるわけで、閉鎖的な人間空間の中で無理強いされてる気がしてくる。
で、そのイヤなヤツが、ずっと自分の人生に居座り続けるんじゃないかと思えてくる。
ああ、イヤだ、イヤだ。
「イヤな人はそのうち消えるから大丈夫」
嫌がってる人にそう言っても、
「うちは小さい会社だから人事異動がないんですよ」
とか、
「向こうが辞めない限り、それはないです」
なんて、希望のないことをきっぱり言われたりする。
さて、縁の特性を単純に考えてみると、“繋がる”と“切れる”の二つ。
ところが、縁を意図的に“繋げる”“切る”が難かしい。
繋がった縁を大事に繋げていく。
そうは言っても、消えたり薄まったりするのが縁。
繋がった縁を切る。
これは、けっこう、エネルギーが要ること。
離婚はその最たるものかと思う。
親子の縁だって、切ると言っても見えないヘソの緒はついてまわるもの。
縁というのは、自分が意図してどうにかしようとするより、自然な成り行きにまかせておくのがいい。
と思っているのだけれど、「じゃあ、イヤなヤツはいつ消えるんだっ」て話になってしまう。
イヤなヤツは、いつかは消える。
だから、いつ消えるんだっ!
そう詰め寄られても……。
“いつかは消える”の“いつ”が分からないから、「イヤだ、イヤだ」とイヤなヤツのことが気になって、「イヤだ、イヤだ」の感情の中でジタバタしたりするものだ。
中には善い人になって、イヤなヤツを好きになろうと努力したりして。
好きになれるなら努力もいいけれど、それがまたストレスになり得るから困ったものだ。
イヤなヤツが消えるとき。
それは、イヤなヤツとの縁が消えるときとも置き換えられる。
それを「イヤだ、イヤだ」とイヤなヤツのことを考えて意識を向ければ、かえって縁を強める気がしてくるではないか。
嫌がっている人の話を聞いていると、嫌がることが日々のイベントみたいに思えるときがある。
“嫌がる”という自分のイベントがあることを期待しているかのように。
イヤなヤツに何を期待してるのか?
我が身の経験から言うと、イヤなヤツとの縁を弱めるには、自分が期待していることに気がつくこと。
退屈な日々を色付けする「イヤだ、イヤだ」のイベントであったり、イヤなヤツに自分を認めさせたがっていたり、と何かしら期待するものがあるはず。
その何かに気がついたら、期待するのをやめればいい。
ある人は、職場の取締役との「イヤだ、イヤだ」が何年も続いていたけれど、その「イヤだ、イヤだ」も飽きた頃に取締役は消えた。
ある人は、直属の部長と何年もやりあって神経をすり減らしていたけれど、互いに相手を認めさせたがっているのに気がついたら、急に社内の状況が変わって離ればなれになった。
縁はそうそう続かない。
イヤなヤツとのご縁も、そうそう続くものではない。
イヤなヤツはいずれ消える。
そして自分のエピソードになっていく。
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・2年前の今日の日記 「父への反省文」