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孤独と絶望を抱えて

わたしの記憶は2歳ぐらいから始まっている。
憶えているのは、「オトナになるといろんなことを忘れてしまうから今をしっかり記憶しておかなくちゃ」と思ったこと。それで、まだ二十代の母親の顔を記憶に焼き付けようとまじまじと見たのを憶えている。

初めての絶望は2歳の頃だった。
失敗続きの毎日、牛乳を飲もうとしてコップに手を伸ばした瞬間、なぜかテーブルにあったコップが横倒れになって、ぽたぽたと白い雫が畳を濡らした。スローモーションみたいなシーンを『困ったなあ』と思いながら眺めていた。オトナだったら自分で片づけられるのに。
で、同じく泣きそうに『困った』顔で母が畳を雑巾で拭いていたっけ。

初めてのバー通いは2歳の頃だった。
その頃わたしは、東京の下町、入谷に住んでいて、アパートの隣にバーがあった。そこは昼間、ドアが開け放しになっていて、中からグレープジュースの甘~い匂いが漂ってくるのだった。蜜の香りに誘われた孤児は、窓が一つもない薄暗いバーの戸口にいた。すると、白いシャツのお兄さんが手招きして、「ジュース飲む?」と訊いたのだ。
遠慮なく「ん」と頷き、オレンジジュースをゴチになる。
味をしめた二歳児のバー通いが始まった。

クッションが固めのソファでいただくオレンジジュース。
白いシャツのお兄さんが洗い物をしていたのをカウンター越しに見ていたのも憶えている。
おっきくて深いシンクが二つ。なみなみ水が溜まったシンクにグラスがプカプカ浮いていた。
ウェルカムなお兄さんがいるカウンターの中に入ると、お兄さんはビールだかジュースの箱を用意してくれた。その箱に乗ると、シンクの高さにちょうどよいのだ。で、水道の蛇口を全開にして、バシャバシャ水遊び。エプロンドレスみたいなワンピースの前がびしゃびしゃになった。
楽しかったけど、『困ったなあ』と思ったところに、眩しく陽が射し込む戸口に人影が。

「おかあさん」

泣きそうに『困った』顔の母親は、お兄さんにぺこぺこ頭を下げていた。
それから、昼間のバーのドアは閉まったままになった。かすかにグレープジュースの甘い匂いが洩れるドアになってしまった。

失敗だらけの日々は続く。
母親が買い物に出て一人留守番をしているときにウンチがしたくなった。そこで、卒業した象さんのオマルを思い出す。流し台の下にしまわれたオマルを「ヨイショ、ヨイショ」とひっぱり出した。
その頃、トイレでするときは、母の手を借りないと便器をまたげなかったのだ。だから、お役ご免になったオマルに固いウンチをした。それはそれは、りっぱなウンチだった。お尻を拭いたかどうかは憶えていないが、わたしは立派にやり遂げたのだ。
ところが、帰ってきた母は、それはそれは泣きそうに『困った』顔でオマルのウンチを片づけていた。『困ったなあ』と思った。

人間の世界で失敗続きのある日、何をしたかは憶えていないが、叱られてアパートの階段の上で白い壁を夕がたの陽が照らすのを眺めていた。絶望していた。これからずっと、うまくいかない毎日が続くのかと思うと、うんざりだった。
自己憐憫と絶望の腹いせに、母親を困らせてやろうと思ったわたしは家出を思いつく。行き先は孤独な嫁の最大の敵、父方のばあちゃんち。
とことこ歩いて、悲しみを最大限に膨らませ、祖母の懐に飛び込んだ。
これが、のちのち母の恨みを買うことになる。

陽が暮れた頃、泣きそうに『困った』母が、ばあちゃんちの戸から顔を覗かせた。

「何しに来たの?」

泣きそうに『困った』顔の母親に、何て怖ろしい子どもだろう。

オトナになっても孤独と絶望はつきまとう。
幸せもいっぱいあるのに、自分はラッキーだと思いつつ、孤独と絶望は抱えたまま。
とくに誕生日が来る前は、ガメラの気分なのだ。
平成ガメラが独りで緑の血を流しながら、海底深くで傷を癒すように。

退行催眠で母のお腹に中に戻ったとき、あったかい羊水に包まれて、このぬくぬくがずっと続けばいいと思った。生まれてみるのが怖かったのだ。
詰まった息を吐き出すように生まれた瞬間、言葉になってない言葉で「どうってことない」と呟いた。

人は、たぶん、生まれてその物語を終えるまで、孤独と絶望を抱えて生きるのではないだろうか。
孤独と絶望は消せない遺伝子。生きる限り、この体の一部にあるのだと思う。それがあるから、この世の自分があるのだとも思う。

誕生日が近づくと、なぜか疼きだす。
誕生前のリフレイン。

過ぎてみれば、きっと、何もかもが「どうってことない」のだろう。

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・1年前の今日の日記 「夜中の訪問者」
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