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「自分がそうだから、 みんなもそう!ではない」のは当たり前だが……

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<2015>

人が、こぞって来ない場所が好きで、
大勢の人で賑わっている場所が好きではないので、
気になる場所は平日狙いで行く。

平日は仕事で休みが取れないとか、
事情あって平日は動けないとか、
空いてる平日狙いができない人は多くいるだろうが、
世の中には、
賑わっている場所だから行きたい!
という人もいる。
と、知ったときの驚きときたら……。

たとえば、渋滞に遭うのが予想できるのに、
ちゃんと渋滞に嵌る場所へ、嵌る時間帯に行くのは、
そうすることで「行った!」という達成感、
あるいは「行った!」という印象づけが得られたりするものらしい。
(本人が自覚しているとは限らないが。)

そして、そもそも、
そういう人は、混んでるのは嫌だと思っていない、
らしいのだ。
(本人が自覚しているとは限らないが。)

それを聞いたときは、世界が止まった。

何しろ自分は、ほぼ貸し切り状態が好きだから。
映画館でも公園でも、
「人、いない~」
が嬉しいものだから。

自分がそうだから、
みんなもそう!ではない。


それは当たり前のことなのだけれど、
けっこう、自分とは違うことを認識せずにいることがある。
「ふつう、そうでしょ?!」
と思っていることは、疑ったほうがよい。
「ふつう」と思っている自分の決めつけを。

最近は、混んでようが、渋滞があろうがもろともせず、
人が多くいそうな場所へ出かけていくのは、すごいなあと思っている。
タフでないと、
できない。





io日和> <魚の庭> <ゼロ✦プラ

  

持っているから見つけられる

持っているから見つけられる

年末に、あちこちから届いたカレンダーを整理していたの。
使える、使えない……。
ほとんどが処分になる中、ひと月の日めくりカレンダーがあった。
毎日のお言葉がひと月分。それを12ヶ月、めくっていくタイプ。
「要らないわ~」と思いながらパラパラとめくっていて手が止まった。
持っているから見つけられる。
補足書きに「人のよいところは、自分が持っているから見つけられる」みたいなことが書かれていた。

手が止まるほどハッとしたのは、この補足書きだった。
人の鼻につくところや、嫌だなあと思って気になるところは、自分の中にもあるかと探す。
でも、いいなあと思うところは……、自分にもあるとは捉えていなかった。

いいも悪いも、自分の中にある。
いい、悪いの区別なく、持っているから見つけられる。

そういうことね、と思う出来事。


io日和> <魚の庭> <ゼロ✦プラ

🍵2年前の今日の日記 <賀正2015 -入れものを大きく-
  3年前の今日の日記 <神さまバージョンアップ
  4年前の今日の日記 <宮司さんの教え「御札は脱がして」
  6年前の今日の日記 <ちっさい神社さん
  8年前の今日の日記 <洗濯日和

  

思いの重み

最近、「これ、大事!」と思うことがある。

思いは遂げたほうがいい。

そして、とくに感じるのは、
小さな思いつきでも、やらずにいると、
思いは重みになる
ということ。

「重み」というのは体感的なものなので伝えにくいのだが、
思いつきでも思ってきたことでも、
「それをして何になるのか?」とか「何のために?」と考えていると重たくなってくる。

それを単純にやってしまう(実行する)と、ふっと軽くなる。
軽くなるということは、重みが抜けるということ。
重みが抜けると、次に行けるということ。

生きるって、
単に、「思いを遂げる」の繰り返しを重ねて、
螺旋を上がっていくこと

と思うこの頃。

「思いを遂げる」と言うと、「大きな思い」であったり、「世の中の役に立つような立派な思い」とか、大そうな思いをイメージするかもしれないけれど、そんなんでなくていい。
ささやかな思い、ばかばかしい思いつきの思いの数々を叶える。

思いを遂げて叶えないと重みになる。

これを実感して意識してみると、スルーしている思いつきや、置き去りにしている思いの数々が浮上してくる。

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そんなわけで、ムーミン谷に行きたかった思いが浮上した日に行ってみた「あけぼの子どもの森公園」にて。
十月の陽と風を浴びた隙間時間。



io日和> <魚の庭> <ゼロ✦プラ

🌏3年前の今日の日記 <夜の微生物


  

妖精さんと真実

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三階のベランダから、夜の空間をぼんやり眺めていると、掌より少し小さいものが、白っぽいオーラを放ち、羽ばたきながら飛んでいるのを見る。
それを見るようになって暫くの間、このことは誰にも言わず自分だけの秘密にしていた。
「あれは妖精さん」と思っていたから。

ある日、そいつの正体がカマキリであることが分かって、がっかりもしたのだけれど、妖精なんてそんなものだろうとも思った。
何の映画だったか忘れたが、「妖精は、(人が)見たいと思うから見えるのではなく、姿を見せるかどうかは妖精しだい」みたいな台詞があった。
要するに、現れるかどうかは妖精さんのほうに選択権があるというわけだ。
それでも、用心深くない妖精さんも中にはいて、人に姿を観られてしまうのもいるのではないかと、妖精さんへの期待を捨てきれないでいる。
ただ、実際に妖精さんを見たら、本当に見てしまったら、かなり怖いのではないかとも思う。
想像するような、映画やアニメにあるような、単に優雅で美しいものではなく、一見そうであっても、ぎょっとするような体験になるやもしれず、涙目になってしまいそうな気がするのだ。

昨年、梅雨が明ける間際の頃に、蛍がそろそろ見られるのではないかと、雨上りの夜に、知人の誘いで山間の蛍の里に行ったときのこと。
雨が上がったばかりで、他には誰も蛍を見になど来ていなかった。
出かける前から、嫌な予感はしていた。
あれは、あれは、何だったのだろう。
「ぎゃあ〜!」
夜の静寂に響き渡る声をあげていた。
今、こうして書きながら思い出してもどきどきしてくる。

自分が思ってもみない、想像の域を超えるものを見ると、自分の体験じたいを打ち消そうとするものらしい。
わたしはそうだった。
「あれは目の錯覚、何か勘違いした、見間違えただけなのだ」と。

結局、蛍は一つも見ずに、「あれ」に驚かされ、急いで車に乗り込み帰ってきた。
「あれ」は黒い影のような姿で、でも緑色の光を帯びていて、「蛍はいないか」と道沿いの清流を覗き込むわたしの隣で、一緒に川を覗き込んでいたのだ。

数日後、地元の人から「蛍が出てるよ」と聞き、またそこへ行った。
いつもは静かな里に、蛍を見に来る家族連れやカップルの車が行き交う。
「こんな夜には、例の「あれ」は現れない」と、確信めいたものがわたしの中にあった。

緑の灯りが無数に、高いところまで飛ぶ光景。
蛍が放つ光を堪能する中、ふと思った。
異常にぎょっとさせられた「あれ」は、「蛍の精」だったのかと。
蛍の里の主みたいな、蛍たちの守り主みたいな存在かと。
そう思うことが、すごく腑に落ちる夜だった。
そして、ここが大事。自分が見たこと、体験したことを疑うのはやめようとも思った。
人が信じなくても疑おうと、見たものは「見た」でいい。

自分が腑に落ちたからといって、あのとき見たものの正体は「蛍の精」なのだと、それを主張するつもりはない。
ただ、「あれ」を見たことは、「自分を、自分の体験を、もっと信じよう」と思い直す出来事だった。
自分の体験から腑に落ちることが、自分の真実。
人生で体験してきたことから得てきたはずの自分の真実を、どこかで疑ったり、否定している面があるのではないかと思ったのだ。

見たものは「見た」。
思ったことは「思った」。
体験したことは「体験した」。
すべては、そのままで受け入れていいじゃないか。
自分の人生で体験したことがどうであったのか、その真実は、公に主張せずとも、自分は信じていこうとあらためて思う出来事だったのだ。

大きい画像はこちら↓
★ <魚の庭> 春の妖精
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オフィシャルサイト<io日和> Photo綴り<魚の庭
4年前の今日の日記 <桜風の頃
5年前の今日の日記 <桜風日和

自分の中の境界線

どうしたものか……。
郵便局から帰って来る途中、シャッターが閉まったある店の前で、その子を見つけてしまった。地面に座り込むようにして、きょとんとした表情で落ちていたのだ。

どうしたものか……、拾って帰るといってもなあ。

まず、その子に触れていいものやら考えた。
近くの伝線の上には、親鳥らしいのが、じっと見守るように留まっている。

持っていたデジカメを取り出し、2メートルほど距離を置いて、その子にカメラを向けた。
どうしたものか考えながら、一回、二回、シャッターを切る。
答えは初めからあったも同然、やはり、私には無理だわ。
親鳥の代わりはできない。

仕事場に来ていたライター氏に、その子のことを話すと、「ツバメの子は巣に戻してやっても他の子たちに排除されてしまうらしいよ」と言う。
それを聞いて、少し安堵する自分。
が、見つけてしまった立場としては、「親鳥の代わりはできない」と結論を出したにもかかわらず、あのまま立ち去ってよかったものか、やはり気になった。

ネットで調べてみると、人間の手が触れたツバメの子や巣には、親鳥が警戒して近寄らなくなる、などとも書かれている。
そもそもツバメの巣は、人目に触れる位置にあっても、容易に人の手が届く高さには作られない。人間の生活圏にいながら、人の手出しができない場所で、天敵であるカラスなどから身を守っているのだ。
ところが人間としては、身近な場所に巣を作ることで、親近感を持って見てしまうところがないか?
野生は野生なのに。
私が「自分は親鳥にはなれない」と結論を出したのは、人間と野生の境界線はあると思ったからなのだ。

巣からこぼれ落ちたツバメの子は、その人生、じゃない、ツバメ生の大失敗をしてしまったことになる。
そこに人が介在していいものなのか? 
「どうしたものか……」と考えたのはその点だ。

しかし、ネットでさらに調べてみると、ツバメの子を拾ってちゃんと育てている人もいる。
立派だ。すごい。
(温度管理が必要らしい)暖かい巣を用意して、15分おきだか2時間おきだかに餌を与え(ペットショップで売っているミルワームというのがよいらしい)、飛ぶ練習までさせて旅立たせてやる。
もう、ホント、申しわけないが、私には無理だって。

その無理は承知で、1時間ほどして見に行ってみると、その子は跡形もなくいなかった。

嵐の晩に、「ピンポーン」。
ドアを開けると、びしょ濡れの若いイケメンが立っているではないか。
「終電もなくなって行くところがないのです。一晩、泊めてはくれませんか?」
「まあ、こんな嵐の中を。
 さあさあ、ウチは四部屋ありますから、今夜は一部屋お貸ししましょう」
若いイケメンくんは、「決して見ないでください」とキッチンへ向かうと、何やら料理を始める。
「まあ、ツバメの巣のスープ!」

拾って育てた末には、こんな「若いツバメの恩返し」があったかもしれない。
そういう期待はしないけれど、あのツバメの子は、カラスや猫に持ち去られたのではなく、世話のできる誰かに拾われたような気がしている。

自分には無理と結論しておきながら、誰かに期待をかけるなんぞ、何と勝手なことだろう。
私は、そういう人間なのだ。

あの子が、わたしの勝手な期待に反してツバメ生を終えていたとして、そうであればそれは仕方がない。
可哀そうではあるが、生存の過程で取り返しのつかない失敗は、生き物にはある。
親鳥が守る巣の中でさえ、餌にありつける子と、なかなか餌にありつけない子の生存競争があるのだもの。

*野鳥の会のポスター http://tinyurl.com/l9a9onw

20130610a

 *知ってるとは思いますが、
  中華料理のスープの具などに使われるのは、アナツバメの巣であり、
  一般的なツバメとは違います。



ioWEB> <魚の庭

  

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Author: 葉月いお
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―魚の庭― Photo綴り
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