
2020年、元旦です!
朝から、いつものように洗濯する朝。
神社さんに御札をもらいにお参りがてらウォーキング。
穏やかな元旦の陽の暖かさの中で、
今日の、2020年明けを待ち望んできたことを
じんわりと感じています。
昨日までの2019年は、着々と忙しかった。
大晦日の最後まで。
バタバタではなく、着々と。
そして最後は、いつものようにバタン、キュー。
2019年は、
「私、こんなにやりました」「こんなことをしましたよ」と見せられる成果ではないけれど、自分自身に取り組める年でした。
よくやった!
自分でよくやったと思えるのは、外に対して見せることはさておき、
自分の内に向くほうを選べたからだと思うのです。
そんなわけで、着々とやっているうちに、
落ち着いてきて増量し、薄っぺらだった体に厚みもできました。
今年は深みが増せればと思います。
どうぞ、よろしくお付き合いください。
ありがとうございます。
<io日和> <魚の庭> <ゼロ✦プラ>

ランチのあと、気に入っている川っぺりの場所で、友人と日向ぼっこ。
自然と親しむ間もなく今年の夏が過ぎ、9月に入ってようやく自分時間を取り戻してきた感じ。
川っぺりの日向と風と、川の音が気持ちよくて、何時間でもいられそう。
川に降りる階段に腰を降ろして、「思考を止めて空っぽになる」とか、クリアリングとか、思いついたイメージングワークをして過ごしていると、蝶々が現れて、私を一周して飛んでいったり。
そのうち、私の横で、小さい子が遊ぶみたいに階段を上がったり飛び下りたりしてる気配がして。
誰かいるでしょ!
と、声を上げて指摘したら動きが止まった。
怖いものではなくて、自然にいる何か、が、いる。
そういう存在に、いじられたり遊ばれたりすることがある。
で、川の向こう岸は、渡りの置石が水没していたので今日は渡らなかったけれど、写真を撮ったらあちこち靄ってて、やはり、いなくなくない感じ。
私の感覚では、自然にいるもの。
ジブリの作品に描かれるような存在。
水木しげるさんが描く、妖怪っぽさもある何か。

<io日和> <魚の庭> <ゼロ✦プラ>

スーパーで芍薬を見つけて、今、ウチには6本の芍薬がいる。
カリコリ食べたくなる蕾がだんだんと膨らんでくるのを見るのは楽しい。
早く花を見たい気持ちと、「だんだんと」の蕾の時期を楽しんでいたい気持ちと、どちらかというと私は蕾を見ていたいほう。
玄関に置いた芍薬はとうとう花になった。
大輪の花。

運動会とか、入学式、卒業式、そういう学校行事でよく飾られている「紙の花」みたい。
……、というか、あの「紙の花」の原型は、芍薬(あるいは牡丹)なのではないか?
今さらだけど、誰が考えついて広まったのか分からないが、あの「紙の花」は大したものだと思う。
頭の中が「紙の花」に行ってしまうと、目の前の花の感触のイメージまでカサコソした微かな音がしてくる。
イメージの誤作動を払おうと、そーっと花に触れてみると、ああ、しっとり、柔らかい。
蕾の頃の薄いピンクの余韻が溶け込んだ白は、エレガントで、ただただ優しい。
私は優しい人ではない。
自分が優しくないのは分かっている。
で、優しいってどんな?
どういうことが優しいのか、どうすると優しい人になるのか、優しくない私にはよく分からない。
だから、ときどき、優しいについて考える。
「優しい」が具体的によく分からないけれど、今、咲いている白い芍薬の花に「優しい」を感じる。
どっしりしているのに重たくなくて、柔らかくて、ふんわり美しくて、「愛」を形にしたみたいな。
「愛」なんて言葉を出すと、「愛」は分かるのか?と言われそう。
ただ、私には「愛」のほうが分かる。
自分の中で、「愛」か「愛じゃない」かが分かる程度に。
優しいって、優しいって、どんな?
自分の中の問いかけには、早く答えを見つけたいものと、だんだんとじわじわ分かっていくのがいいものとがある。
私にとって「優しい」は、「だんだんと」のほう。
あっさりすぐに分かったら、もったいない気がする。

<io日和> <魚の庭> <ゼロ✦プラ>

彼岸入り早々、浅草に墓参り。
父が逝って二回目の春にいる。
去年は上野に出て、桜が咲き始めた上野公園を散策したが、今年は浅草寺さんへ。
人混みに入るのは勇気がいるので、雷門の前を通って銀座線に乗って帰ればいいくらいの気持ちでいた。ところが、つい、ふらふらと、雷門から仲見世に入っていて、「もう引き返せないな、行くしかないな……」と御本堂に向かったのだ。
ときどき思う。
何もかもが、もう引き返せない。行くしかないのだと。
先へ、先へと生きるしかない。
と、ときどき大袈裟なことを思ってみたりして。
まあ、「人混みは勇気がいる」とか思いつつ、身体はすいすい人波をすり抜けていく。
長年の通学通勤で身に着けた感覚は身体が覚えている。
その感覚に乗っている心地よさは、自分に戻っているときの心地よさに通じている気がする。たぶん、そう。
雷門から仲見世を抜け、仁王門(宝蔵門)をくぐり御本堂へ。
お参りで賑わう人たちの後ろで、ご本尊さまに手を合わせ、くるり、来たほうを眺める。
ああ、すっかり、春の風。
本堂前の常香炉で、子どもの頃、よく、煙を浴びた。
「ほら、頭がよくなりますように。」
若かった母が、そう言って、私の頭にもうもうと上がる煙をかける。
不思議なのは、母との浅草寺の記憶はあるのに、父や祖父母との浅草での記憶の欠片がないこと。
私が憶えていないだけなのだろうが。
父が逝ってしまう前に、一緒に浅草へ来ればよかった。
泣き言じみたことを思うと、ちょっと泣きそうになる。
天気のよい、風がいい、ゆるい春の彼岸は、
機嫌よく心地よく、ときに涙もろく、なる。
<io日和> <魚の庭> <ゼロ✦プラ>
🐟魚の庭
<大桜のシルエット>
<はぐれモクレン>
<梅爛漫>
🌏いおろ
<一本ぼっち>
<支援物資の件>